玄関のドアを開けた途端に部屋の奥から立ち昇ってくるむせ返りそうな酒の匂いに眩暈がした。きっちりと靴を揃えて脱いでから、勝手にあがらせてもらう。どうせ家主を呼んだところで返事はないのだ。部屋の電気は点いたままだったが、どうやら起きている人間は一人もいないようだ。コタツで雑魚寝をしている男が四人。狭苦しそうな体制で部屋の片隅で縮こまりながら寝ている男が一人。そして、ベッドの上に寝ている女が一人。ぼくはふうと小さくため息をつくと、コタツで寝ている男の一人の頭を蹴り上げた。それでも一発では起きなかったようなので、今度は派手に頬を平手打ちしてやったらようやく眼を覚ました。
「あぁ……おつかれさまっす」
彼は半分、というか八割方寝ている声でなんとか返事を振り絞った。なんとなくむかついたのでもう一発蹴りを入れておく。
「お疲れ様じゃないよ。いい加減酒の飲み方ぐらい覚えろ」
「いや、途中まではペース保ってたんっすよ」
「お前が俺に電話した時点で呂律は回ってなかっただろうが」
「今は回ってるじゃないですか」
酔っ払いの不可思議な理屈に頭痛がする。
「でもまぁ、この間みたいに一緒に雑魚寝していないだけマシだがな」
「そりゃそうっすよ。あのときの風見さん、マジで怖かったんっすから。もう鬼かと思いましたよ」
「アホか。異性の講師と枕を並べて眠る生徒がどこにいやがる」
あの時ぼくがなんとか立ち回ったおかげで彼女の立場が危うくなることはなかったが、かなりギリギリのところであった。そもそも彼女の方にも危機意識というか社会人としての基本的な立ち振る舞い方が大きく欠如しているということもあるのだろうが、そんなことはこいつにはわざわざ話さなくてもいいことだった。
「とにかく、早川は連れて帰るぞ。もしもまた早川を酔い潰すようなことしやがったら、石抱かせて海に沈めるからな」
ぼくは彼の側頭部目がけて最後にもう一度蹴りを入れると、ベッドの傍まで近寄った。
早川あおいはぼくが事務を勤めているパワフルアカデミーという野球選手教育専門学校の講師だ。彼女とは高校が同じだったのだが、卒業と同時に離れ離れになってしまっていた。ぼくは近隣の大学へと進んだし、彼女はなんとプロ野球選手になってしまった。それからちょくちょく顔を合わせては飲みになど行っていたのだが、まさか彼女が後々この学校で講師を勤めることになるとは夢にも思わなかった。そもそもパワフルアカデミーに勤務することになったのは、大卒で入ったぼくの方が先であった。とはいえ、早川もぼくがいるから講師になったというわけではなく(当然なのだが)、この学校の理事だか協賛者だかの強い推薦だったそうだ。
元プロ野球選手だったということで、それなりの野球の実力はあるし体力だって並の女性とは桁外れなのだが、その分彼女は一般的な常識が少し分っていない。だからこうして生徒の家で酔いつぶれるまで飲んだりすることもあるし、その後彼氏でもなんでもないぼくを呼びつけることにも厭わない。
「早川、起きろよ」
ぼくは早川の肩を掴んで結構強めに揺すってみた。口元から「ううん」と悩ましげな声が出て少し変な気持ちになってしまったがそんな場合ではない。彼女の少しふくらみ気味の頬が赤く熱を帯びているのがわかる。試しに手でぺちぺちとはたいてみたら、なるほど確かに少し熱くなっていた。ぼくはそのまま早川が眼を覚ますまで軽い平手打ちを繰り返した。
「あ……風見くん」
「お、起きたか。酔いは覚めてるか」
「ちょっと気持ち悪い……」
「ちぇっ、いい気なもんだな。とにかく帰るぞ。もう終電もないんだから」
ぼくはそのまま早川の脇に頭を通し、体を支えながら彼の家を後にした。そのとき、彼が「この後はどちらでご宿泊ですかー」と素っ頓狂な声をあげはじめたので、早川をかついだまま五・六発蹴りを入れておいた。
助手席に乗せた途端頭ががくんと落ちていったので少しびっくりしたが、また眠るようなことはなかった。それどころか、車を走らせるごとに徐々に覚醒していっているようにも思える。ぼくは車を運転しながらそれとなく早川に話しかけていた。
「前も言ったけどな。生徒の前で潰れるまで飲むんじゃないよ。一応聖職者だろうが」
すると早川はそうなんだけどねえとまるで他人事のように返事をした。
「やっぱり負けてられないなって思うじゃない?」
「なんでだよ」
「うーん、それはやっぱり、講師だからかな」
「アホか。講師だろうが猟師だろうが、酒に弱い奴は弱いんだよ」
事に、早川の酒の弱さは友人の間でも有名だった。事実、ぼくが大学生の時に早川と何度か飲んだ時などは、グラス半分で顔が真っ赤、一杯開ける頃には意識が虚ろ。そして大体二杯目の二口目辺りで眠ってしまっていた。その都度ぼくは早川を車に乗せ仮眠を取り、彼女を律儀に家まで送り届けていた。そんな学生時代の美しき友情が社会人になって糸を引いてくるとは夢にも思わなかった。
「自制出来るようになるまで禁酒したら?」
信号待ち。ぼくは片手で煙草を取り出しすと一本咥えて火をつけた。右手で軽く窓を開けて、左手でMDを操作する。何故かその時入っていたMDはクラシックだったので異様に場違いだった。ああ、星条旗よ永遠なれ。じゃーんじゃーんじゃじゃっじゃーんじゃ、じゃじゃじゃじゃじゃーん。
「えー、イヤだよ。お酒好きだもん」
「飲めもしないくせに不思議なもんだな」
「飲めないから好きなのかなあ」
「酒って、何が好きなの?」
「うーん。なんかこう、甘いヤツ?」
「ジュースでも飲んでろ」
早川に酒の味を覚えさせたのは多分ぼくだと思う。だけれど、彼女は現役のときはぼくと会うときくらいしか酒は嗜まなかった、そうだ。本人が言っていたのだから間違いない。だからその分当時の彼女を知っているだけに、今の彼女のご乱心ぶりは些か首を捻るところなのだが、最近になってようやくわかりはじめてきた気がする。
要は、彼女は人生を楽しんでいるということなのだろう。
酒も、友人とのバカ騒ぎも、彼女は大手を振って行えていなかったことだ。プロ野球選手になるために、そしていざプロ野球選手になってからは職業を保つため自制に自制を重ねた二十数年間だったはずだ。だから今、それを取り戻そうとしているんじゃないだろうか?
確かにあいつらみたいな阿呆生徒どもと阿呆騒ぎをしているときのあおいは、眩しいくらいにイキイキとしている。学校では生徒と指導者という立場のはずなのだが、一歩外に出ると同じ立場の友人になってしまっている。そんな講師、パワフルアカデミーでも早川だけのはずだ。
信号の色が変わったので、ぼくはゆっくりアクセルを踏む。法定速度を守りながら夜のパワフルタウンを走るのも悪くないものだ。
しかしなあ、とぼくは思う。
高校時代から数えると、もう十年近い付き合いの彼女だ。お互い未婚で恋人もいない。ぼく達の間に恋愛感情はあるんだろうか。正直に言えば、ぼくは自分の本心すらわからない。多分、彼女に告白されたらもの凄く困るだろう。何故なら、そういう対象として見た事が一度たりともないからだ。そう。一度たりとも。
きっと早川もそうなんだろうな。ぼくのことを異性として認識していないからこそ、こんな日付が変わった深夜に呼びつけることも出来るのかもしれない。それを半ば義務のように感じてしまっているぼくも悪いは悪いのだけれど。
「どうしたの、風見くん。余所見してると危ないよ」
早川に注意され、ぼくは慌てて視線を前に戻す。すっかり吸いすぎてしまった煙草の先から灰の塊がぽとりとズボンに落ちた。
「なんかなあ。俺達ってどういう関係なのかなって思ってさ」
するとあおいはけらけらと腹を抱えて笑い出した。そんなにおかしいことか、おい。
「なんなの、また急に」
「自分の事ながら変な間柄だなってなんか、ふと」
「いいんじゃない。ボクらはボクらなりの付き合い方があるんだから」
「そんなもんですかね」
「そんなもんですとも」
そう答えると、早川は目を瞑りシートに体を預けた。それから二分もするとすうすうと小さな寝息が聴こえてきだした。
隣でそんな簡単に寝入るんじゃないよ、まったく。
ぼくは短くなった煙草を灰皿に放り込むと、もう一本咥えて火をつけた。窓に流れる煙は後方へと物凄いスピードで消え去ってゆく。夜の街を駆け抜ける煙草の煙と男女。なかなか蠱惑的な響きではあるが実際はビックリするくらい平凡だ。あと十五分程度で早川のマンションへと到着する。そうしたらぼくは彼女を降ろして帰宅する。帰ったら何を食べようか。夕食を摂ったのはもう五時間以上前なのだ。さすがに小腹が空いている。
せっかく迎えに来てるんだから、晩飯くらいサービスしてくれればいいのに。
ぼくはそんな有り得ないことを考えながら車を走らせる。隣から聴こえてくる静かで可愛らしい寝息に、ほんの少しだけ学生時代を思い出していた。
『だって仲良しなんだもん』